開発奮戦記04

『デジタル歴史文化空間地図』の可能性

東京は昭和三十九年の東京オリンピックをさかいに町の様子が大きく変わってしまった。小さな住宅が集合住宅に、店舗はビルに、曲がった道は直線道路に、日本橋の上には高速道路までが通った。古く由緒ある町名も無粋な町名に変えられてしまった。

90年代に入ってバブルがはじけると、表通りに駐車場ができ、虫食い状態の町が巨大開発を待っているかのように干からびてしまった。巨大ビルができると、町の風景は一変してしまい、昨日まであったはずの店が今日には取り壊されて更地になっていたりする。一週間もたつと馴染んでいた町の記憶すら定かでなくなり、「ここには一体何があったのだっけ?」と、物忘れの激しくなった自分に唖然とする羽目になる。

新しい建物ができ、古い施設が取り壊されるのは世の常とはいえ、どの町も同じような町並みでツルンとなっては、個性もなく面白味がないではないか。

私の通った中学の隣に、現在、江戸東京博物館が建っている。昭和三十年代は江東青物市場で、またその昔は南割下水の突き当たりで、幕府の本所側の米蔵で、米蔵といってもその実、幕府御用向きの竹蔵であった。その広大な敷地が明治になり陸軍の被服廠となり、関東大震災前には広大な跡地となり、震災時にその空き地をめがけて逃げ込んだ人々に、大変な悲劇が襲った。

時代が行きつもどりつしたが、東京という巨大都市にはその巨大さゆえに多くの重層的な歴史が重なり合い、香り豊かな文化の町が形成されたのだ。ところが、そういうことを調べる歴史地図は、古地図マニアか歴史博物館か郷土史家などの一部の限られたものの占有物で、そういう情報は一般の人々は知ることができなかった。

欧米に「老人が一人亡くなると図書館が一つなくなる」という諺がある。老人の皺のひとつひとつに刻まれた歴史は、実は私たち自身のものなのだ。私たちの生まれ育った町の記憶は、語り部の老人が亡くなると同時に、横丁や路地にあった温もりとともに消えてしまう。

「地域のコミュニティを育てよう」というキャッチフレーズも、なぜか空しく響く。都市に住む人々の自分の町に対する誇りや文化観が根っこにあってこそ、コミュニティは成立するのではないか。江戸の三大祭といえば山王神社、神田明神、浅草三社、深川八幡、鳥越神社……、一体どれを云うのか。どの町の氏子に聞いても説が定まらず、「俺の処は入るね」ということになり、そういう独り善がりといってもよい住人の誇りが地域の活力になり、文化を高進させるのだと思う。

であればこそ、内藤新宿北裏町に三遊亭圓朝が住んでいたとか、浅草橋場町の真先稲荷にいた川口お直なおが清元の名曲「北州」を作曲したとか、紀尾井町は紀伊と尾張と井伊の三家の頭文字をとって起立した町名だとか、そんな町の文化や歴史を、次代を担う子どもたちとともに知ることが必要ではないか。分厚い歴史資料を紐解かなくても、誰でもが簡単に知ることができる企画「重ね地図」のコンセプトは其処にこそあるのだ。

 

【江戸の発展】

家康の江戸開府以来、江戸の町がどうやって発展してきたのかは古い絵地図の検証によって先人が営々となされてきた仕事であるが、デジタル化された江戸の地勢の実測地図の仕事はその端緒についたばかりである。江戸も270年の時間経過があり、その正確な江戸街区の検証は明暦の大火(1657)以降、隅田川を東に渡った本所深川地区に町人町屋が計画され、一部の大名の屋敷や寺院などもそちらに移転していくのだが、それら江戸の区画整理のきっかけとなった明暦の大火について触れておきたい。

【明暦の大火】

数多い江戸の大火の中でも明暦の大火は、江戸城の天守閣を焼失させ、江戸の城下の大半を焼き尽くした点において特筆すべき火災であった。明暦三年(1857)一月十八日、本郷丸山の本妙寺を火元とした火は、冬の北風に乗ってたちまちにして本郷の町屋から湯島に飛び火し神田の町をなめ、東は隅田川を渡って本所、深川の川沿いの町まで延焼し、日本橋、京橋、鉄砲洲、築地へと足を延ばし、一方、神田から南へ流れた風が城の天守閣を焼き、御曲輪大名小路の屋敷街を炎上させ、外桜田辺りまでを焼き尽くした。伝通院あたりに飛び火した火元から飯田町、番町へと類焼し、赤坂溜池へ飛び火した火が東側からの火と日比谷で合流し南の芝にまで広がった。

明暦の大火によって江戸の中心部は大半が焼け落ちた結果、江戸の都市計画が実行されることとなった。芝の三田が目黒に移ったように、旧来の古町が統廃合されたり町の所替えが盛んに行われた。また寺社の移転も行われ、それらに伴い代地があちらこちらにでき、深川の地名を冠した町が牛込にできるなど、町の様子は一変した。

こうした大火のたびに江戸の町は少しづつ少しづつ変化していき、幕末期の大名屋敷の配置と町屋と寺社地の配置に定まってきたのだ。殊のほか寺は移転しているし、大名が幕閣に取り上げられるなど、時の幕府の人事異動とともに屋敷替えも盛んに行われたのだった。

【江戸東京重ね地図活用例】東京に眠るロマン 史上初の国家的プロジェクト ~奈良・平安の遺構『条里制』を発見!~

すみだ郷土文化資料館の田中学芸員によって発表された江戸に条理があったという学説は、区の考古学チームによる中世期の古道の発掘調査ポイントと筆者の重ね地図とを合わせて検証していくことで北区から荒川区にかけての条里制の存在を浮き立たせた。南は浅草寺本堂に突き当たる南北の道の存在も類推されるという。

奈良から平安時代にかけて施工された『条里制』については、荒川区と台東区、そして北区の低地部において「分布の可能性がある」という指摘は以前からあった。しかし同時に、東京23 区においては、都市化、震災・戦災のため確認が困難とも言われてきた。

条里制とは、土地支配を行い易いように地表面に施した、碁盤目状の土地区画制度だ。特徴的なのは、水田以外の土地など、実際には地割りが施工されていない野や山、岡の上にも、理念上の土地区画を施しているところにある。机上で設計した碁盤目状の条里方格によって、水田と未耕地の場所をたちどころに把握できる仕組みを作っていた。そして、この条里プランは、のちの水田開発計画の基準線としても機能したのである。

条里の復原は、おもに地籍図と航空写真を併用するのが一般的だが、前述のような理由から、東京エリアでの地籍図の確認はできず、明治時代の地形図(迅速図)などに頼るほかはない。これまで指摘されてきた可能性もこれに依ったものであるが、明治時代の地形図には実測に歪みがあり、109 メートルの方格の確認を必須要件とする条里の復原には必ずしも適さない。

そうして、長い間復原が困難だと信じられてきた東京区内において、現地に地割りをあてはめ、全容を復原し、さらに、いつどのように施工され、どういった全体プランに基づいて作られたかを明らかにしたのは今回が初めてである。このような発見が可能になったのは、現代の精密な実測図に、江戸の道路・水路などを正確に重ね合わされた『江戸東京重ね地図』の登場によって、検証に必須のアイテムである地形図の問題がクリアされたからである。

条里は、単に古代の地域計画だけにとどまらず、中世の開発計画の基準線としての役割も果たしている。したがって、条里の発見とは、現在に至るまでの、寺や水田の配置、町の地割り・都市景観を規定する原点の発見をも意味する。今後、この地図の有効活用によって、考古学的発掘で出てくる道路や溝の遺構の意義を検証することができ、さらに新たな成果が期待できるであろう。