開発奮戦記02

江戸地図を読み解く基礎知識

地図中心の読者諸兄に地図の読み方をというのもおこがましいことを承知の上だが、江戸地図の世界はより文化的・美術的側面を強調した地図になっている。そのことから、もっぱら明治以降の地形図を読まれている方々には、種々の実測地図とは趣が違うことはご理解いただけると思う。現代、江戸地図で最も目にするのは江戸大絵図か切絵図の類いである。切絵図は現在も盛んに江戸関連の出版物の補完地図として目にすることも多いので、それらを見る上での基礎知識に触れておきたい。筆者が目指している何層かの時代を重ねて地歴変遷を串刺しでみたいという思いから、まずは明治期と万延元年(1860)の江戸図をベースにした。萬延江戸図は、町の地勢上の骨格が仕上がっているので、幕府引継ぎ文書である「御府内沿革図書」を読み解くことで、より前の時代に遡ることができるようになる。今回は、江戸地図を読み解く際に必要になる基礎知識を開陳しておきたい。

A.町は両側町

切絵図などでは、道の真ん中に町名が書いてある箇所が多い。これは道路を挟んで●●町というようなケースである。日本橋・京橋・神田などの町人町に多い。本郷などでも、主な往還を挟んで本郷一丁目や六丁目というような例がこのケースにあたる。江戸の地図を見る場合、どこからどこまでが何町なのかを判別する術がないので、このことは頭に入れておきたい。明治時代までこの原則が適用され、関東大震災後の復興町作り以降は、区画ブロック単位に変貌していった。また、現在のアメ横のような正式町名ではないが、人々が呼び習わしている里俗地名が混在しているので、正式町名との仕分けに注意が必要だ。

B.村は大きく町は小さい

現在の白金、渋谷、千駄ヶ谷、巣鴨、駒込など、いわゆる江戸と云われる朱引墨引の内の地域と郡部の境に位置する村などの地域は、人々の活動範囲の広がりの中で急速な発展を遂げる。例えば千駄ヶ谷村の中で集落の密集しているところに、千駄ヶ谷町として起立するケースがある。その後に明治になると、これらはより広域の町になり、村から独立して町として起立していくケースであり、上記の地域には数多くみられる。切絵図などでは、駒込村の駒込妙義坂下町、雑司ヶ谷村の高田四家町などが、このケースとして特徴ある記載で表示されている。町名変遷や行政区画の起立時にはこれらが重要な境界線として現れてくる。

C.門前町も正式な町

筆者のいう「門前町」は幕府が徴税するための正式の町屋を云い、寺社と並立して「門前」となっている町を云う。地図上には、例えば麻布善福寺門前と長々記載できないので、単に門前としてあるが、正式に門前町は独立した町と理解してよい。明治以降になり周辺の町名に吸収合併されて消滅しているケースが多い。

D.河岸地

江戸は、堀で切りこまれた水運の町。その証拠に地図上には河岸の名前が散見できる。こういった堀は、その後に埋め立てられ暗渠になり、高速道路などになっていく。この河岸は一体どういう扱いをしたらよいのだろうか。広義に理解すると、河岸も町名と同様の扱いをする必要性があると筆者は考えている。いずれにしても江戸市中中心部には実に多くの河岸が存在する。筆者の精査によると凡そ100 弱の名前を現認している。

E.新じんみち道は横町(丁)と同じ

日本橋や京橋、神田など古くから開けた町人町には横町が存在し、しばらくの間は●●新じんみち道と称して、新たな横丁が出来、実質的な横丁の長家町が出来上がってくる。地図を読み解く上で、まさにこの横町こそが庶民の営みを表す佇まいといえるだろう。巷間、大江戸八百八町と言われる(実質的にはもっと多いのだが)地図を読み解く上で町屋のふくよかな色付けといえるのだろう。

F.武家地は町名がなかった

精確に言うと武家地には町名がなかったのではなく、武家地の集合している地域は芝、番町、牛込、赤坂、霞が関などの広域地名だけがあって、現在の町名に当たるところがなかった。地図上では白が武家地、赤が寺社地、灰色が町人町屋、茶色が公儀(幕府の施設)で表わされているところが、視覚的にわかりやすく、眺めていても楽しい。

G.代地

江戸は火事によって何十回となく焼け出され、その都度、新しい町が作られてきた。地図を詳細に見つめていくと、牛込地区に深川を関した地名があったり、芝の三田が目黒にもあったりと、町が住人毎移転し、移動先に新たな町が起立していることがわかる。これはいわゆる「代地」と云われる地名で殊の外多い。地名町名の変遷を確認する上で重要な要素である。

H.家紋が上屋敷、■が中屋敷、●が下屋敷

尾張屋板切絵図を含め、江戸の主要な地図には凡例上のルールがある。非常に多くの絵地図が残る江戸では、大名が幕閣などに取りたてられるなどの理由で、屋敷替えが盛んに行われており、詳細にみると大名名の記載が変わっていることが多い。それに伴い、上屋敷が中屋敷になったり、またその逆の場合など、江戸城周りの大名屋敷の記述の変化は相当あることを知識として留め置かれるとよい。筆者制作の地図には国名・藩名・石高・現都道府県名を表記している。

I.文字は正門に向いている

江戸地図は文化地図である。細かいスペースに寺社や下級武士などの名前を記載する上で、文字の方向性が重要になってくる。明治以降の実測地図の文字記載とは違い、見た目の楽しさはこの辺にあるのだろう。大名屋敷での大名の名前や寺社名などは、多少地図によってその方向性が違うこともあるが、基本的に正門がある方向を上に文字が表記されている。

J.朱引墨引の内が江戸

どこからが江戸でどこからが江戸の外なのか?明治初期に廃藩置県が行われて以降、明治新政府によって正式な町村が起立し、その区画をもって朱引墨引の正確な線引きが検証できることになった。いわゆる15区6郡の区画が参照できる。