開発奮戦記03

江戸切絵図から測量地図へ

東京の文化地勢地図を製作するにあたり、明治期の史料を基礎資料として、先ずは町の街区データを整備し、それを江戸の街区として取り込むのだが、その際には明治の実測地図が大きな力を発揮する。それらの地図は、江戸(古東京)を写し取った史料であることが前提で、江戸の地図の基本骨格となるからだ。つまり、地図は明治だが、その写し取られている地勢は江戸そのものであるということなのだ。

江戸をそのまま残した古東京は、大正12年(1923)年9月1日11時58分32秒に発生した未曽有の大災害・関東大震災によって壊滅。震災後、当時の東京市長・後藤新平が復興計画を策定、都心部において環状六号線(山手通り)や郡部にはバイパス道路が建築されて、現代の東京に繋がる街が形成される。

その後、昭和16年(1941)から昭和20年(1945)にかけての太平洋戦争、終戦後の昭和22 年(1947 )の35区から23区への行政区画変更、昭和39年(1964)の東京オリンピック、昭和末のバブル景気と崩壊などの時代を画す事案によって、東京はその都度、拡大変貌を遂げ続けてきたわけだ。

筆者の構想するところの、江戸時代の絵図と現代の測量地図に至る「実測絵図」・「測量地図」とを横糸で結び、時間軸を縦糸として地歴を串刺しにするという壮大な試みの経緯を説明しておきたい。

【絵図と地図】

近世の地図は地球表面の全体、もしくは一部を縮めて平面に図示したものである。近世の測量法によって現わされる地図と、測量技術の伴わない絵図を比較してみる。

『近世絵図と測量術』川村博忠著では下記のように絵図を定義している。江戸時代に様々な絵図が作られ「江戸大絵図」「切絵図」のように呼称され地図一般を表わす印象を与えるが、絵図はあくまで絵画的手法によって表現した地図のことであって、地図全般を指す言葉ではなくより限定した意味で用いられたものだ。

したがって「絵図」を古い地図全般を指す「古地図」と同義語として用いるのは間違いである。

絵図も詳細に分類すると、分間絵図や見取り絵図のようにその形式によって様々に分けられはする。しかし、絵図はその用途によって図面の大きさ・方位・縮尺などが異なる。一般向けに刊行された絵図と違って、公用の絵図は基本的に手書きによって作図されることから、図幅の大きいのが特徴である。

「国絵図」などは、大広間で広げて見るのが通常だから図面の大きさはいとわない。最も有名な伊能図大図などは、全図ともなると体育館の大きさを必要とする大きさだ。

それに比して「町内図」などは、どこの場所に誰が何坪の土地に住んでいるかなどの徴税上の検地においても重要であり、概念図として利用できる分間図になる。精度高い絵図では幕府の測量方が製作した「御府内沿革圖書」がある。「御府内沿革圖書」は、現在の東京の千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区。墨田区。江東区をほぼ網羅しているのは、のちの十五区六郡の行政区界に生きてくる。この絵図を精査していくといわゆる測量地図に近づくことができるわけだ。

【絵図の形式】

江戸切絵図「東都浅草絵図」尾張屋板

絵図は内容の詳しさの程度によって仕分けすることができる。代表的な「国絵図」は山川・村里・井堰・堤防・神社・仏閣などの形を表わし、「町絵図」では図幅をいくつかに分割して切図の形式になっている。江戸のような大都市の場合、大縮尺の詳細図を作ろうとすると、図幅が大きすぎるため、市街地を縦横に区切った部分図にならざるを得ない。いわゆる尾張屋板や金吾堂板の切絵図に代表される形式である。

【絵図表現上の特徴】

1.絵図を分析してみると、国絵図・郡絵図・村絵図・道中絵図・海辺絵図・川普請絵図・新田図などその主題によって分類することができる。また、絵画的表現としての仰見図や俯瞰図の手法が取り入れられているものもある。仰見図は地面から見廻して見える範囲内の地図で、俯瞰図は空に飛ぶ鳥の目線で描いた絵図のことだが、それぞれ絵図の趣きは大きく異なる。

村絵図

2.彩色は絵図の基本的な特徴の一つだ。色鮮やかな絵図は景観を浮かび上がらせ水田・田畑・藩有地・私有地などの区別を目的に応じて色分けして整理している。

3.絵図には地誌情報が盛り込まれるが、表記文字を含めすべての情報を網羅することはできない。そんな中、神社の鳥居マークや一里塚の黒星マークなどが慣用されている。また、大名屋敷の上屋敷は家紋、中屋敷は■、下屋敷拝領屋敷などは●などの記号がある。

4.絵図中に多くの注記文字が盛り込まれている。名所旧跡に古歌や事歴を書き込んだり、藩への上申の村絵図では村高・人口・田畑面積・牛馬数などの詳細情報が記されている。

【方位】

空間認識の位置関係では、絵図の多くは西が上のケースになっている。江戸時代、多くの絵図が製作されてきたが、江戸の西に位置する富士山を図上部置き、はめ絵画的手法で表現されている。個々の地図の作者は向きを自由に制作したようだ。したがって、絵図の向きが地形的条件に左右され、必ずしも同じ方位を上に向けてはいない。

江戸の中心部においては、城や町のランドマークになるような寺院などを前面において作成されたことがわかる。この手法で何世代か地図が作られると、それが踏襲される傾向にあった。各年代の江戸大絵図に、その傾向が顕著にみられる。

【絵図を実測地図へ】

このように方位も定まらず、また縮尺も一定しない絵図をベースに、再現する工程はどうなるだろうか。

上記に述べたように、先ず最初の検証は明治初期の実測地図と見比べ、四隅の緯度経度情報を基に下敷きにして、現代の国土地理院の数値データと合わせこんでいく調整作業になるのだ。基図はあくまでも現代の数値データであり、明治の街区を写しこんだ上で、江戸の絵図との見比べて江戸の街区地勢を作りこんでいく。当然、郡部になると情報も少なく尺度も小さい。

重ね地図の趣旨は、幾世代もの街の経年変化を表現することだが、明治期・45 年間ともなると、1レイヤーだけでは一概に明治という日本の曙期の変遷を見る上では不満が残ることになる。

筆者は明治初期(明治10年代)と後期(明治30- 40年代)の2レイヤーの時代の復元を試みた上で、江戸の地勢に合わせる作業をしている。その理由は2つあり、明治初年(1868)に地租改正、明治4年(1871)に廃藩置県が行われ、多くの大名屋敷などが、新政府の役所や軍の施設などに吸収されていく様を明らかにしたいのが1つ。

もう1つが、江戸から明治という新しい世に変遷していく文化的な地勢地図のデジタル資料が他にはないからである。町名が武家地を統合して起立するのはこの明治期。この時期の人物・会社・商店・建物・鉄道・寄席・風呂屋等々の現代に通じる庶民の生活史を追うための文化情報が、地図上に詳細に記載されたものは無いのだ。そのような資料は江戸東京関連の万巻の書に収められながらも、一元的なデータにはなっていない。

文化的地勢地図のデジタルデータこそが、次世代に繋げる貴重な文化遺産になり、デジタル時代の申し子の産物ともいえるのではないだろうか。