開発奮戦記05

東京の町名変遷

町の名前には、さまざまな時代におけるその町の機能や性格が表れている。また町に住む人々の美意識や生活感情が込められている。町名の沿革や変遷をたどることは、その町の歴史的な生い立ちや発展を探ることだ。

東京は江戸幕府解体ののち、明治3年、4年と改訂が行われた。明治11年、郡区町村編成法が施行され、15区6郡、昭和7年35区、昭和22年23区と繋がって現在に至っている。合わせて個別の町も統廃合を繰り返してきた。江戸の昔から変わらない町名もあれば、時の流れにいつしか磨滅していった町もある。町名が変わる・変わらないということは都市全体の性格を反映していると言えまいか。

東京の町名の改変が著しいことはだれの目にも明らかなことだ。それは東京が日本の首都で、すべての中心であったこと、関東大震災や空襲によって多くの町並みが跡かたもなく壊されたこと、また膨大な人口の流入によって伝統的な江戸の面影がなくなったことなど物理的、文化的な入り組んだ誘因がある。町名は町とともに変わったのだ。

【台東区の沿革】

江戸時代、寛永寺・浅草寺を中心に栄えた下谷・浅草一帯は、現・台東区である。この地域、幕末期は武家地・幕府の役人地・寺社地・町屋が混然一体となった典型的な下町だった。江戸から現代に至る町名の変遷を探る上で大変興味深い地域なので、今回は、台東区の変遷に触れたい。

A.幕末期

縮尺の関係から主なランドマークの寺社名と町名だけを記述した地図である。白が武家地、ピンクが寺社地、グレーが町屋、緑が田畑。黒が江戸の墨引き線でおおよそ江戸と言われた範囲。また地図の全域は台東区である。黒線がかぶったり大きく膨らんでいる橋場町や三ノ輪町などの北部は広域地名の浅草や下谷に含まれているエリアである。

さて江戸をよく見ていただきたい。グレーの町屋は寺社地や武家地の縁にへばりついているのが読み取れるだろう。寺社地、武家地は町名がないのである。下谷の佐竹様、浅草の六郷様の類で呼ばれていたわけだ。

B.明治の初期

10年代にもなるとグレーの町屋が周囲の寺社地・武家地を吸収して町が起立していることが見て取れる。これは明治四年に廃藩置県が行われ諸大名が国元に去り、旗本・御家人が離散し、武家に生計を依存していた町民層も困窮し、火も消えたような状況だった。最盛期には130万を超えていた人口も明治4年には半分に激減した。市中の7割を占めていた武家地は荒廃し、昼間も女子の一人歩きは危険といわれるほどであった。

江戸から東京への変化の中で、武家屋敷はほとんど解体され、大名屋敷は住む人もなく荒廃し放置されたものが多かった。下谷・浅草地区の武家地では陸奥秋田藩の佐竹家の屋敷などは町人地として開放され、現在の佐竹商店街へと繋がっていくことになる。また東北線開通とともに寛永寺の子院が撤去転院させられ、山下に上野ステーションが建造されている。

C.明治後期

40年前後の地図である。明治の世もこの時代になると日清・日露戦争を経て落ち着きを取り戻し、浅草北方の吉原田んぼや日本堤の周辺にも町が起立することになる。グレーの町屋の表情が多くなっていることが読み取れるだろう。人口流入に伴い上野の寛永寺や浅草寺の面積を削り取られ小さな町になっている。

この時期は陸軍省測量部の実測地図が充実し、本地図の再現に大いに役立った。また郵便地図などで町の区画がはっきりと記載された地図も登場する。

明治中期に15区6郡制が敷かれ、浅草一帯においては、現在の荒川区と分筆され、上・中・下根岸町と金杉村が分割されることになる。この区画が現在の台東区と荒川区の境界線に当たる。下谷西部地区では、上野・下谷と湯島、谷中と根津・千駄木地域に文京区との境界線が明確となる。

D.昭和16年期

大正12年の関東大震災を境に、江戸に繋がる古東京が壊滅することになる。制作基礎資料として昭和戦前期を代表させる再現年代を昭和16 年を選んだのは、民間発行の地図の情報が充実していたからである。本来は15 区6郡から35 区になった昭和8年が相応しいのだが資料を集めきらなかったこともある。

この時期になると、東京復興計画によって、道路が拡幅され、町の骨格が大変貌している。それに伴い町名から下谷・浅草の冠を取ったり、町の区画境界が明治後期に比して微妙に変わってくる。また、浅草では関東大震災によって移転を余儀なくされた寺社が世田谷等に転出している。

E.昭和31年

昭和22年の35区から23区に行政区分が変わって以降、若干の変更が行われる中で昭和39年東京オリンピック前の状況を表す地図である。戦前期とやはり微妙に違う町名変更がある。

F.平成の現代地図

見事に無味乾燥な町名のパレードだ。浅草橋、浅草、西浅草、北上野、東上野、谷中の町名に丁目を付けて見事に江戸からの由緒ある地名を消し去っている。

黒門町の師匠の8代目文楽、稲荷町の師匠の8代目正蔵ははたして今のどこに住んでいたのか。町が持っている文化が見事に消し去られて町の誇りはどこに消えてしまったのだろう。

G.現在の町会境界地図

細々と町会は旧町名を使って生き延びているではないか。各年代を見比べていただきたい、町の息吹を感じるはずだ。