開発奮戦記06

D.昭和16 年期

大正12 年の関東大震災を境に、江戸に繋がる古東京が壊滅することになる。制作基礎資料として昭和戦前期を代表させる再現年代を昭和16年を選んだのは、民間発行の地図の情報が充実していたからである。本来は15 区6郡から35 区になった昭和8 年が相応しいのだが資料を集めきらなかったこともある。この時期になると、後藤新平(東京市長・内務大臣兼帝都復興院総裁等)の東京復興計画によって、道路は拡幅され、一部自動車道路も整備され、町の骨格が大変貌しているのだ。それに伴い、町名から下谷・浅草の冠を取ったり、町の区画境界が明治後期に比して微妙に変わってくる。また、浅草では関東大震災によって移転を余儀なくされた寺社が世田谷等に転出している。

E.昭和31年

昭和22 年の35区から23 区に行政区分が変わって以降、若干の変更が行われる中で昭和39 年東京オリンピック前の状況を表す地図である。戦前期とやはり微妙に違う町名変更がある。

F.平成の現代地図である

見事に無味乾燥な町名のパレードだ。浅草橋、浅草、西浅草、北上野、東上野、谷中の町名に丁目を付けて見事に江戸からの由緒ある地名を消し去っている。黒門町の師匠の8代目文楽、稲荷町の師匠の8代目正蔵ははたして今のどこに住んでいたのか。町が持っている文化が見事に消し去られて町の誇りはどこに消えてしまったのだろう。

G.現在の町会境界地図

細々と町会は旧町名を使って生き延びていることがわかる。神輿の保管場所などに旧町名を見つけると昔からの町名のつながりにホッとする。旧町名はそこに生きた人々の生活の息吹きや文化、歴史が込められていることが見て取れる。浅草、下谷という広域地名や現在の町名の由来となった故事来歴に思いをいたし各年代を見比べていただきたい。